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通称「赤石さん」といわれる「志賀理和気神社」は坂上田村麻呂の勧請(まつること)に始まると伝えられ、仁寿二年(853年)に正五位下という位をいただき、延喜式という神社名帳に記入されて、岩手県十四社のなかの一社で、国司から御幣をさずかる全国最北の式内社でした |
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「霊石」といわれる赤石は、約400年ほど前に紫波郡領主の斯波孫三郎詮直が、当社の北上川岸に立ち川底から見つけて神としてまつったといわれ、「今日よりは紫波と名付けんこの川の石にうつ波紫ににて」と歌をよみ紫波という地名のおこりと伝えられます。
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社頭には南部利視(第7代)藩主の寛保元年(1741年)に建てた石標や、是信房の墓への道しるべ碑があります。 |
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■紫波町桜町の志賀理和気神社(通称を赤石神社という)の参道の古桜並木は町指定の天然記念物になっておりますが、ひときわ大きい桜樹を「南面の桜」といって、次のような話が伝えられています。 ■今から650年ばかり前の南北朝時代のこと、都から左遷(官位をさげられ辺地に移住)された中納言藤原頼之という公家が、この社前に居住しておりました。 ■頼之は桜を植えて寂しさを紛らわしておりまして、里人は頼之を桜町中納言とあがめて、誰いうともなくその辺を桜町というようになりました。 ■ある年の桜の花の咲く頃に、大巻館の殿様が、娘の桃香姫と共に参拝がてら花見に来ました。中納言の頼之も加わって、やがて賑やかな花見の宴が開かれ、たけなわとなり、舞おどる美しい桃香姫の優しい歌声に、頼之は心を引かれ、桃香姫もまた頼之のりりしい気高さに心を痛め、やがて二人は相思相愛の仲となりました。 ■それからいく月かたって、左遷の罪が許されて、頼之は都へ帰ることとなり、「来年の桜の花が咲く頃に迎えに来るから、その時まで待ってほしい」と、伝えて別れました。やがて待っていた春となり桜が咲きました。夏も過ぎ冬となって1年たっても迎えも頼りもありません。また、春となり桜の花の咲く頃となり、桃香姫は1日も早く迎えが来ますよう、社に祈願を重ねました。 桃香姫は咲き匂う桜花に口すさびました。 【南面の桜の花は咲きにけり 都の麻呂にかくと告げばや】 ■都の藤原頼之の元に届いた歌の便りに、不音を深く詫び、程なく迎えにきたという、桜にまつわる伝説でした。 (志賀理和気神社所有文書より) 大鳥居をくぐってすぐ左手の柵の中 いわれを記述した看板 |
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【住所】紫波町桜町本町川原1 【電話】019-672-2767 JR東北本線紫波中央駅から 車で2km約5分 ★GoogleMapで地図を見る ★MapFanで地図を見る |